気持ちは思春期の40代リーマンのブログ

まだ自分探しが終わらない40過ぎオヤジのつれづれ日記

自分を知る(内観のススメ)その一

 縁があって、7月上旬に内観法を体験してきた。少し大げさかもしれないが、私にとっては、いままでの人生観を変えるような体験となったので、このブログを借りて綴っておきたい。

 初回は、そもそも内観とはどんなものかについて書く。

内観とは

 字のごとく自分の内側を観るのが”内観”である。浄土真宗の”身調べ”を原点とし、一般の人々にも広げるべく、吉本伊信氏が工夫を加え、シンプルかつ明瞭に見直したのが現在の”内観法”となっている。

 創設者の吉本氏は、内観法を実践する最終目的を「どんな境遇になっても喜んで生きられる精神状態を身につけること」と言っており、この言葉に強く同感を覚え、私も内観を体験してきた。

わたしの内観体験

 一定の期間(1週間あるいはそれ以上の期間)をかけて、寝食以外は内観だけを行うのが”集中内観”と言われており、今回私は6泊7日の日程で関東のある内観研修所に行き、集中内観を体験してきた。

 一日のスケジュールとしては、以下のようになっている。初日と最終日以外はこのスケジュールを繰り返して行う。

 5:00  起床、部屋/フロアの掃除

 6:00  内観開始

 7:30  朝食

 12:00   昼食

 14:30     入浴

 17:30  夕食

    21:00 内観終了/就寝 

 入浴と排泄以外は、部屋の中で置かれた屏風の中で静かに座ってひたすら内観を行う。食事中もスピーカーから過去に内観された方の体験談や吉本氏が内観について公園されているテープなどが流れ、それを聞きながら屏風内で届けられた食事をいただく。要するに起きている間は、ひたすら内観を行うような日程で、まさに”集中”内観である。

 では、内観は具体的に何をするのか?内容は至ってシンプルだ。身近な人を対象に、その人に対して、過去に”してもらったこと”、”して返したこと”、”迷惑をかけたこと”の3点について、期間(たとえば、小学生時代のように)を区切って思い返すということを行う。

 そして、おおよそ1時間半から2時間おきに、研修所の内観指導者が屏風の前まで来て、その間にだれについてどんなことを振り返ったのかについて面談する。面接と言っても、内観指導者はこちらの言葉に耳を傾けるのが主で、時間にして約5分程度である。このように一日約8回ほどの面接が行われる。

 ちなみに、研修所に到着後すぐオリエンテーションで内観についてのこと、なぜ今回内観に参加しようと思ったのか、今までの履歴を簡単についても話をした。また、貴重品を封筒に入れるように言われ、財布と通信機器を預けた。内観の期間中は外部との連絡も一切断つのである。

 そのようにして始まった私のはじめての内観体験、次回は内観を経て感じたこと。そして、現在の状況についての書きたい。

自分が自分であるために

と書き出してみたものの、”自分とは何だろうか”との回答をそもそも持ち合わせていないことに気づく。

 思い返すと10代のごろ、少しずつ自我についての意識が芽生え、”自分ってどんな人なんだ”と気になり始めた頃から、ずっとその答えを探しつづけ、”これだ”と見つけたつもりになっては、なにかの拍子で崩れるというサイクルの繰り返しだった。

 「自分は見つけるものではなく、創るもの」という考え方もある。確かに、他人から見れば、外部環境に対応するため、自分というものは変わり続けているのかもしれない。しかし、自分に自信をもち、自己を受け入れ、承認していくために、変わらない確固たる”自分”というものをどうしても求めてしまう。そして、その手にしたい「確固たる”自分”」は、ポジティブで世間一般に良いとされる価値観にかなり侵食されていることに気づき、「そんものを求めていたのか?」と自問自答し、出口のない迷宮に入り込んだような気持ちになる。

「失敗は成功の糧」、「諦めなければ必ず得るものがある」など偉人たちの伝記に登場する言葉は、たしかに心に響き、「考え方を変えれば、自分の人生も変わる」と気持ちを奮い立たせる効用がある。しかし、その効き目が継続することは稀で、”変わらない現実”という強敵の前ではいとも簡単に倒され、自らを騙しているだけではないかという感覚にすら陥る。

 そんなことを思いながらも、「たしかな自分」というものを求めているという事実は否定できない。今できることは、この事実だけを正面から向き合って、焦らずにこれからの人生を生きていくことかもしれない。 

情けは人のためにならず

 

 土曜の昼下がり、貴重な梅雨の合間の晴れで、運動を兼ねて自転車で30分かけて病院へ向かった。家を出てから10分ぐらい、住宅の交差点を通ろうとしていたところ、あれ?交差点の手前で独り言をつぶやきながらぐるぐると歩き回っている女の子がいるではないか。

 独り言の内容は断片的に「だれか・・・教えてくれませんか?」と聞こえて、かなり焦っている表情から、困っていそうな状況にあることは見てすぐわかった。

 いつもなら”知らぬが仏”で通り過ぎて、あとになって「あの子大丈夫だったかな」と心配する情けない行動を取っていたと思う。なぜかこの時は、”いきなり変質者扱いされないよな”と本の一瞬頭をよぎるも、それを遮って、自然に「どうしたの?」と声かけることができた。

 話を聞いてみると、友達と公園で待ち合わせしていたけど、道に迷ってしまって、待合せに間に合わないから焦っていたとのこと(たしかに、この辺の道は入れ組んでいてややこしい。)。ということで、公園の名前を聞いて、連れて行くことに。

 ちょっと距離感を取りつつ、会話しながら進む。

 「何年生?」

 「小学校2年生です。」

 「〇〇小学校?」

 「はい、そうです。」 

 とこんな感じのやりとりをしているとあっという間に公園に着いた。友達を見つけると女の子の表情が一気に花が咲いたように笑顔になって、僕に一礼をして公園の奥へと消えていった。

 ”小学校2年生なのにしっかり敬語が使いこなし、人に助けを求められるのはすごいな”、”帰りは大丈夫かな。もう迷わないよな”とそんなこと思いながら、なんと言えない細やかな充実感を覚えて、ぼくは病院へと急いだ。助けたつもりが実は助けられたのかもしれない。

夫婦の喧嘩は犬も食わぬ?

最近の天気予報はどうなっているのかな?

 昨日の夕方時点では曇予告だったけど、朝目覚めてみるといい感じに晴れているではありませんか!!ともかく、久々のお日様、天気にかなり気分が左右される休職中の身としては、ありがたい、ありがたい。

 

んが、しかし、そんな中で事件が・・・

 休職中につき基本フリー。この一ヶ月は、”夫婦ふたりで子供を保育園に送る”→”徒歩でいける嫁の職場の近くまで嫁を送る”というのが日課になっていた。

 僕にとっては、家の外に出る絶好のきっかけ(自分にとっての口実?)になっていたし、わずか15分程度であるが、夫婦水入らずで他愛もない話をするのが好きだった。結婚してもう5年以上経つが、休職にも理解示し、文句一つ言わない妻、本当にありがたい存在であった(ここを見ていないと思うけど、とりあえず、ペコリm(_ _)m)

 

 事件は、本来毎朝のほのぼのとした儀式でもあるこの15分の間の会話で起きた。以下はやりとりの概要

 

 妻:「あなたの勤務先が遠いから、近くに引っ越すことも考えないとね」

 俺:「そこまでしなくてもいいんじゃない。子供の交友関係もあるし、あなたも職場  

    近いし、僕の実家も近いから手伝ってもらえるし、何よりこの辺野菜がやすい

    じゃん」(最後のは冗談のつもり)

 妻:「あなたが職場が遠いってぼやいてたでしょう!実家といっても対して手伝って

    もらっていないよ。前も引っ越そうって言って動かなかった。だから、もう私

    は何もいいたくないのよ、結局行動しない。」←この時点で、すでに少しお怒

    りモード💢

 俺:「俺なら大丈夫だよ!いまはまだ考えなくていいと思っている。」←(なんで怒

    っているんだろう???)

 妻:「私がまた余計なこと言っちゃったね。もういいわ」

 

 そんなやりとりの後、沈黙のまま妻の職場へ到着、途中話題を変えようと話かけど無言の壁。。。😔

 

 ”梅雨の貴重な晴れ間、ただ気持ちは⤵”

 なんでこんなことでケンカするんだろう?😭”自分のためとわかってるけど、そこまで怒らなくても、、、”と気持ちの収拾がつかなず、後味が悪いまま一人で寂しく帰宅した。

 いつもは迎えも散歩がてら、帰りも迎えに行っていたけど、「もう来ないで」ときっぱり妻はどんな感じで帰ってくるんだろうか。

 まあ、いつもなら考え込んでほかの事が手につかない状態になっていたのが、こうして初ブログの投稿ができたことをプラスに考えよう。

 ”夫婦の喧嘩は犬も食わぬ”とはいえ、当の本人たちは引きずるよな。